シュメール人のメモ

気楽に色々書くよ。

「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」を観た

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《ネタバレ注意》


ポリコレ違反によりディズニーをクビになったジェームズ・ガン監督がMARVELからライバルのDCにやって来た。その鬱憤を晴らすかのようにブラックジョーク、残酷な人体破壊描写、無意味なチンコやおっぱいが登場する。ジェームズ・ガン監督もお気に入りだという、キングシャークが敵兵士を引きちぎるシーンは圧巻だ。ゴア描写が苦手な人以外、すべての映画好きにおすすめしたい一本だ。

映画の冒頭、集められたスーサイドスクワッドが横並びに登場するシーンでアメリカ国旗が映る。
本来味方のはずの反政府軍をほぼ殲滅してしまって、気まずそうに「敵も味方も皆殺し。すべてめちゃくちゃにする。これがアメリカ流のやり方だ」という。(アフガニスタンのニュースを思い浮かべた人も多いはずだ。)
そして、この映画のラスボスは赤と青の巨大なヒトデ、スターロだ。もちろんアメリカ国旗を暗示している。
つまり、この映画のテーマはアメリカの帝国主義的な外交政策、及び、世界各国で行った虐殺や陰謀についてなのだ。
また、この映画はウォッチメンやシビル・ウォーよろしくヒーロー(ヴィランだけど)同士の対決がある。つまり異なる正義の対決だ。平和や秩序のために祖国の罪を隠蔽しようとするピースメーカーと祖国の罪を公開しようとするリック・フラッグ大佐の対決だ。ちなみにピースメーカーの衣装も赤と青でアメリカを暗示している。「平和のためなら女子供も容赦なく殺す」が信条だ。ジェームズ・ガン監督によると「ウザいキャプテン・アメリカ」らしい。この対決は結局ブラッドスポートが勝つわけだが、アメリカがスターロの計画に関与した証拠を自分たちの取引きの材料に使ってしまうというオチで、それはいかがなものかと思ってしまった。

もうひとつのテーマは親子の愛憎だ。ポルカドットマンは憎い母親の幻を見てしまう。彼の希死念慮も母親のせいなのだろう。幻想の巨大なママンに一撃食らわして「僕はスーパーヒーローだ!」と叫ぶシーンは感動的だ。その直後に彼はスターロに殺されてしまうが、最後に母親に反撃できてよかった。成仏したということなのだろう。
ブラッドスポートも親から殺人マシーンとして育てられ、子供ともうまくやれていない。その彼がラットキャッチャー2との疑似親子関係の中で成長していく。
これは映画の設定とは無関係かもしれないが、コミックではピースメーカーもナチス高官であった父親の自殺を目撃したというトラウマを抱えており、幻想の父親に苦しめられている。

そして、数々の動物や半獣半人が登場するのもこの映画の楽しみだ。鳥を殺すものには天罰が下るし、ねずみを愛するものには祝福が訪れる。ネズミはディズニーの暗喩だという人もいるが、ネズミはそのままバンクシーの描くネズミ、ブルーハーツの歌うネズミだと思った。社会の最底辺でうごめくネズミ。彼らにも美しさがあるということをこの映画は言っている。
思えばこの映画は野蛮で汚いものと高貴で美しいものが同時に描かれていた。ハーレクインが次々に敵兵士を殺してあがる血しぶきが花吹雪になったり、ジャベリンに導かれてスターロの目玉に飛び込むと不思議に美しい海が広がっていたりする。この映画は観るものに単純な感情でいることを許さない。極悪人の彼らが自発的に自らの命を賭してでも戦う価値のあるものに目覚めるシーンは感動的だ。

汚い物の中にも美しいものが、極悪人の中にも善良な魂が眠っているのである。

ちなみにピースメーカーが息を吹き返したのは大人の事情だが(彼のドラマが制作されてるらしい)、いたちのウィーゼルは今後も大活躍するから息を吹き返したのだろう。おそらく。

「アオラレ」を観た

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【ネタバレ注意!!】


体重130キロはありそうな巨漢が目に憎悪の炎を宿らせて運転席からある家を睨んでいる。偏頭痛持ちらしい男は頭痛に顔を顰めると、鎮痛薬を10錠ほどもひとつかみにすると、ラムネ菓子のようにボリボリと頬張る。爪でマッチに火をつけると、揺れるその小さな火を見つめている。これから実行しようとしている恐るべき凶行をするだけの決心が着くのを待つように。

ジェイソンやジョーカーのようなヴィランが誕生したと言ったら大袈裟だろうか。本作のヴィラン、トム・クーパーも彼らと同じ負け犬だ。離婚した元妻とその新しい恋人を殺しに来たのだ。


主人公のレイチェルは美容師で一人息子を育てている。彼女も夫と離婚協議中だ。息子を学校に送っている最中に、遅刻を理由に一番のお得意から絶縁宣言される。彼女は渋滞のせいだと他の車に苛立ちをぶつけるが、息子は冷静に言う。「寝坊した自分のせいでもあるよね」と。

前の車が青信号になっても動き出さない。彼女は苛立たしげにクラクションを鳴らす。それでも車は動かない。信号が再び赤に変わると彼女はクラクションを鳴らしながら動かない車を追い抜く。追い抜きざまに中指を立て、罵声も浴びせた。

前の車の運転手はトム・クーパーだった。次の信号で横に着くと彼はレイチェルに謝罪を求めた。彼女は謝罪するどころか、息子の静止も無視して彼の怒りを逆撫でする。

ここからニューオリンズを舞台に激しいカーチェイスが繰り広げられる。

本作は90分で観れる軽やかな娯楽映画だが、深刻なテーマを内包しているのも確かだ。映画の冒頭で現実のドラレコ映像(風かも知れないが)が流されることからも、社会的なメッセージがあることは確かだ。

この映画は象徴的には夫婦の殺し合いになっている。トムもレイチェルも夫婦の破綻を経験している。ガソリンスタンドでレイチェルを助けようとしたイケメンの指にはしっかり結婚指輪が光っていた。彼はトムにひどい目に合わされるが、トムにも結婚指輪が見えたかもしれない。

また、レイチェルの離婚弁護士とトムの会話も胸が痛くなる。トムは弁護士に「失業は裏切りか?」と聞く。トムが離婚弁護士に恨みを持っているサイコ野郎だとは知りもしない弁護士は「失業者なんて負け犬だよ」と言い放つ。もちろん彼もトムに惨殺される。

映画は予定調和的に、そしていささか雑に着地して終わる。

トム・クーパーはいわば無敵の人だった。失業し、妻に捨てられ、その妻も殺してしまった。
レイチェルは離婚はしてお得意様に仕事を切られたが、まだ仕事はある。息子もいる。苛立って人のせいにするのはよくない。前の車の人はすべてを失っているのかもしれないのだから。彼女がそのことに気づくための代償はあまりに大きかった。

トム・クーパーは最悪の徒花を咲かせてこの世を去ったわけだが、続編が観たいくらいだ。

「ミセス・ノイズィ」を観た

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2005年に奈良県で起きたご近所トラブルが世間を騒がせた。ヒップホップを爆音で流しながら、「引っ越し!引っ越し!さっさと引っ越し!しばくぞ!」と叫び、布団をたたく鬼気迫る表情のおばさんの映像はあまりにもキャッチーだった。マスコミやインターネットは彼女をオモチャにして遊んだ。元大臣の政治家はテレビの生放送で彼女を「キ○○イの顔ですわ」と評し、バラエティー番組では彼女に扮したキャラクターが登場した。
おそらく日本中の男子中学生が彼女のモノマネをしていたことだろう。騒動は海外メディアに報じられるまでになり、その海外メディアは彼女を「Mrs.Noisy」と名付けた。言うまでもなく「ミセス・ノイズィ」は彼女とその騒動をモチーフにしている。

この映画はカメラの残酷さを描いている。感情的になっていたり、風変わりな行動している人間を撮影し、大衆でそれを消費するという遊び。今でも、風変わりな人物やホームレス、そして精神疾患のある人をオモチャにする遊びはネットで健在だ。誰もがカメラ付き携帯電話を持ち、SNSが発達した現代のほうがこの遊びは流行っているかもしれない。ニコニコ動画youtubetiktokにはたくさんそういう動画がある。ツイッターではそういう人物が晒されてみんなにオモチャにされている。

この映画はドタバタコメディーとして始まる。主人公の真紀は母親であり小説家。しかし、スランプに陥ってうまく小説が書けない。子育てと仕事の両立もうまくいかない。そこに隣に住むおばさんの布団を叩く騒音が始まる。トラブルが重なって真紀のストレスはたまる一方。主人公と隣のおばさん、二人の喧嘩は日増しに激しくなり世間も騒がす大騒動に発展する……というあらすじなのだが、未見の人はもうこれ以上読まずに劇場に行って欲しい。本当にすばらしい作品だった。



《ネタバレ注意!》


騒音おばさんの騒動が一段落した頃、ネットでは「実は騒音おばさんは被害者だった」という噂が広まるようになる。もちろんご近所トラブルや喧嘩なんてどちらにも非があるのが当たり前なので、それはそうだったのかもしれない。しかし、そのあとネットではこの「騒音おばさんの真実」がアンチ創価学会、アンチマスコミ言説と結びついた都市伝説と化していく。たしかに騒音おばさん騒動においてマスコミや世間のやったことは醜く愚かだったが、そのカウンターになるのもまた憎悪にまみれたいびつな都市伝説だった。

この映画も、ミセス・ノイズィである美和子とその旦那の視点から騒動が振り返られると話が反転し始める。彼ら夫婦は風変わりであり、特に夫は心を病んでるものの、彼らは悪人ではなく、誤解されていただけであることがわかってくる。世間からの理不尽な攻撃に「わたしたちは間違ってない」と耐える二人だが、とうとう心を病んだ夫が世間に「ロリコンだ!」と糾弾・嘲笑され、自殺未遂をする。するとマスコミと世間は今度は真紀を糾弾するようになる。

現実と違って、この映画は話を反転させるだけでは終わらないのが素晴らしかった。主人公と騒動おばさん、どちらが被害者なのかという話に着地しないのだ。この映画の終着点にあるのはミセス・ノイズィの気高く高貴な精神だった。

この映画は一言で言えば和製ダークナイトだ。ミセス・ノイズィは子供を幼くして失い、心に闇を抱え、それでも布団たたきと曲がったきゅうりを手に理不尽な世の中に立ち向かう。心を病んだ夫を守るため、子供や弱き者を守るためにミセス・ノイズィは立ち上がる。道祖神にお供えするのも忘れないが、食べ物も無駄にしない。

真紀は美和子がスーパーヒーローだったことに気づいてそれを本にする。真紀はパウロなのかもしれない。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスの追随者になり、聖書を執筆したパウロ


笑って泣けるスーパーヒーロー映画。役者陣もほんとに素晴らしい。子役も天才的だし、主役のふたりがほんわかした雰囲気なのでゆるふわなコメディーの雰囲気が出せたと思う。名作!ヒットしてほしい!

ちなみに、この記事を書く前にネットで色々調べていたら鯖味噌の元ネタも発見してしまった。

「罪の声」を観た

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《ネタバレ注意!》






「罪の声」は出来の悪い娯楽映画だと思った。基本的にこの映画は人に話を聞くだけの展開しかなくて退屈。

子供のころ事件に声を使われただけなのに世界の終わりのように絶望する星野源がウザい。ママンに恨み節をぶつける40男の姿も実に痛々しかった。別にたいしたことじゃないだろ。同じく事件に声を使われて不幸になる姉弟もいるが、それは事件に声を使われたからではなく、たんにヤクザに監禁されてたから。全然深い話じゃない。ザ・ヤクザのザ・暴力。「罪の声」とはいったいなんだったのか。

「金持ちに一発かましたかった」と素直に心情吐露する全共闘ジジイに「そんなのは正義じゃない!」とムダにアツい説教かます小栗旬はもっとウザい。だから正義だって言ってねーだろ。取材源の秘匿はどうした。おまえの取材受けたせいで、全共闘ジジイは素顔を世間に晒され静かな暮らしは失われたじゃないか。

このウザい二人に、夕方の川沿いで缶コーヒー飲みながら、「マスコミって罪な商売だよね〜」「いや、小栗さんはいい人っスョ」「やめてよ〜」みたいなBL小芝居を見せつけられた時は席を立とうかと思った。

ラストは小栗旬が社会部に戻るというクソほどどーでもいい小市民的な話で終わる。この映画は優等生的世界観から一歩もはみだそうとしない。ただ、星野源の仕事が仕立て屋だというのは無自覚かもしれないがうまかった。スーツというのは「自分は危険人物ではない」「社会の常識的な価値観に従順な小市民である」ことを示すために着るものだから。全共闘に説教するキャラクターにまさにぴったりの仕事だ。

映画を観て、考えさせられたりしたくない人、価値観を揺さぶられたりしたくない人におすすめの映画。安心して観れます。

「ザ・ハント」を観た

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トランプ大統領がキレた!」という宣伝文句の「ザ・ハント」を観てきた。トランプ大統領がキレたのだから優等生リベラル的な、保守派をバカにするような映画かと思っていたらまったく違った。


いわゆる「人間狩り」「バトルロワイヤル」系のジャンルムービーである。ある白人女性が猿轡をされて森の中で目を覚ます。回りにはたくさんの白人たちが猿轡をされていることがわかる。貧乏そうな白人たちだ。トランプを支持するような。レッドネック/ホワイトトラッシュと蔑まれるような。
平原にたどり着くと箱がある。箱を開けると中から大量の武器と子豚が出てくる。武器を手に取った瞬間、狩りが始まる。貧乏白人たちは狩られる側だ。
狩られる者の視点で繰り広げられる殺戮シーンが楽しい。上品でリベラルな老夫婦が「地球温暖化は真実なんだよ!」と毒づきながら愚かなレッドネック/ホワイトトラッシュたちを次々と殺していく。狩りの獲物を選ぶときにも「アフリカ系アメリカ人」を入れようと政治的正しさへの配慮も忘れない。砂糖たっぷりの毒みたいなソーダも飲まない。この人間狩りは金持ちリベラルによる貧乏白人狩りだったのだ。

まさに今のアメリカの分断を描いている。SNSの戦争がそのままリアルな殺し合いに突入したみたいだ。お互いの無理解と猜疑心が負の連鎖を呼ぶ。この映画を観て恥入るべきなのは本当はリベラルの方なのかもしれない。この映画には豚が頻繁に出てくる。そして、主人公は「スノーボール」。ジョージ・オーウェルの「動物農場」の引用だ。そして、他にも動物が出てくる。ウサギと亀だ。どんな手を使っても必ず勝つ残忍なウサギ、負け組の亀、そして偽善者の豚。あなたはどれだろうか。

「星の子」を観た

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同じ劇場で「夜明けを信じて」がやっていた。どちらを観るか迷った末「星の子」を観た。「星の子」を選んでよかった。


《ネタバレ注意》


主人公のちひろは15歳の女子中学生。両親は虚弱体質だったちひろを治したい一心で新興宗教に入信する。そして家族がゆっくりと、しかし確実に破綻していく様が描かれる。ちひろの成長と共に家は狭く、貧乏になっていく。狭い家には立派な仏壇がある。両親はいつも緑のジャージを着て頭にはタオルを載せている。そしてとうとう姉のまーちゃんは家出をして行方不明になってしまう。


ちひろは小学生の時、俳優のエドワード・ファーロングに一目惚れしてから(おそらくターミネーター2を観たのだろう)、友達も家族も道行く人も、そして自分もみんなブサイクに見えてしまうようになる。そして、両親は教団から「物の見方の歪みを治すメガネ」を買ってそれをちひろにかけさせる。このエピソードは、なにかをきっかけに物の見方が劇的に変化してしまうことを暗示している。


姉のまーちゃんは家出する前、ちひろに教団では禁止されているコーヒーを飲ませていた。苦くて飲めないと言うちひろに何度もコーヒーを飲ませる。ちひろを覚醒させたかったのだ。とうとうまーちゃんは家出してしまったわけだが、ちひろもまーちゃんが家出した時の年に近づいて覚醒し始めている。姉の革ジャンを着て鏡の中の自分を見つめるシーンが印象的だ。


ラストシーン、家族はみんなで夜空の星を見上げる。父が姉のまーちゃんから連絡が来たという。子供を産んだらしい。父と母が流れ星を見たと言うが、ちひろは見逃してしまう。家族三人で夜空を見ているが、父と母が見ている物をちひろはもう見ていない。ちひろの覚醒の時は近い。


この映画は新興宗教を断罪・糾弾する映画ではない。たしかに教団幹部の昇子さんによくない噂があることは耳にする。しかし噂は教団の外にもある。ちひろが恋する南先生にも教え子に手を出しているという噂がある。人を信じるとはどういうことかというテーマも浮かび上がってくる。


教団幹部の昇子はちひろたち信者に「あなたたちは自分の意志でここに来ていない」ということを繰り返し言う。これは「神秘的な宇宙の力の導き」の話をしているのか、それとも、「子供が親に支配されている」話をしているのか。どちらなのかは最後までわからない。


新興宗教の話ではあるが、新興宗教やそれにハマる両親を断罪する映画ではない。親と子の愛情の話だ。ただ愛は時に歪むし、愛は愛する人を苦しめることがある。「星の子」は、そのことをただ温かく、そして哀しく描いている。

「TENET」を観た

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 初めて「TENET」を観た時、ほとんどこの映画を理解できなかった。この映画を初見で理解できた人なんかいるんだろうか。
 劇中でも予告でも「考えるな、感じろ」という言葉が使われているが、ほんとうに考えなくても映画っておもしろいんだろうか。
 007のように世界各地の美しい景色が見れる。逆再生人間との見たことのない格闘アクションが見れる。飛行機が建物に突っ込むド迫力のシーンが見れる。でもそれってほんとにおもしろいんだろうか?
 
 パンフレットを読んで、しっかり予習復習して話をできるだけ理解してから二回目観たら……おもしろかった!
 すべて理解したわけではないが、おおまかに理解していれば全然違う。結論。ちゃんと考えろ。考えて理解しようとしなきゃこの映画は面白くない。
この映画を「TENET」の挟撃作戦のように予習復習して挟み撃ちにしろ。この映画はニ回以上見るべきだ。

 この映画がわかりにくいのは、時系列が入り乱れるからだけではない。話の展開が下手だし、やたらと複雑すぎる。初見の人がボーっとしてると画面でなにが起きているのかもわからないし、登場人物たちがどういう目的で行動しているのかもわからなくなる。
 映画の最初のシーンは、キエフのオペラハウスをテロリストが襲撃するシーンから始まるのだが、利害関係者が入り乱れていて複雑だ。そしてろくに説明もしない。表向きはテロリストとそれを制圧するウクライナ警察特殊部隊の戦闘だ。しかし、主人公はCIAの人間であり、ウクライナ警察特殊部隊に潜入している。目的はプルトニウム(実際はアルゴリズムという未来から送られてきた最終兵器の一部)を奪うことだ。そして観覧席にはウクライナ政府関係者のCIAのスパイがいる。しかし、そのCIAの計画にウクライナ政府は気付いていた。実はこのテロはウクライナ政府による偽装テロだったのだ。ウクライナ政府は偽装テロに紛れて観客もろともCIAのスパイを抹殺しようとしていた。そこで主人公は仲間のスパイを救い出し、爆弾を解除して観客を守ろうとする。しかし、ウクライナ警察に素性がバレた主人公は殺されそうになる。しかし、そこに謎の人物が表れて逆行するピストルで主人公を守ってくれた。謎の人物のリュックには五円玉のようなお守りがついていた……。
 ここまで映画が始まって3分くらい。ややこしすぎる!こんなの理解できないでしょ!

 この後もセイターという武器商人に近づくためにその妻に近づこうとするのだが、その妻が旦那であるセイターを絵画詐欺で騙した過去があるので、その絵画を盗みに行くというわけのわからない展開になる。しかもその絵を盗むために空港に飛行機を突っ込ませるんだから無茶苦茶な話だ。しかもここまでしておいて絵画は手に入らない。

 少しあらすじがわかってるくらいじゃないとこの映画を初見の人が楽しむのは難しいと思う。他にも、タイムトラベルと言っても過去や未来のある地点にタイムワープできるわけじゃなく、現在から時間を逆行していくという設定は知っておいたほうがいい。そしてここは親切なのだが、時間を順行する時の色は赤、逆行する時の色は青と色分けしてくれている事、時間を逆行している人は酸素マスクをしている、ということも知っておいていいと思う。


《以下、ネタバレ》


 キャットはいわゆる「ファムファタル」なのだが、このキャット、ビッチが過ぎる。愛人と共謀して旦那を騙して数億円奪おうとしたあげく、CIAに売り、海に突き落として殺そうとする。そのくせ枕を投げられただけで「信じられない」みたいな顔して被害者ぶっている。いやいや、おまえ先に旦那殺そうとしたやんけ。そもそもキャットは金目当てで武器商人と結婚するような女だし。
 そして、終盤のベトナムのボートの上のシーン。キャットはアルゴリズムを回収するまでセイターの自殺を食い止めるという重大な任務を引き受けるのだが、まだアルゴリズムを回収できていないのに感情的になってセイターを殺してしまう。結果的に問題はなかったのだが、あやうくキャットがビッチ過ぎるせいで世界が破滅するところだった。主人公がどうしてこんなビッチに惹かれたのか、まったく理解できない。

 アルゴリズムの話も複雑だ。セイターが死んだらアルゴリズムが起動するわけではない。セイターが死んだらアルゴリズムの位置が記録されるのだ。記録が残ると未来でアルゴリズムが見つかって起動されてしまうということらしい。これはラストシーンでキャットが自分の居場所を録音(記録)しているのと同じ理屈だ。だからラストシーンで主人公はキャットを助けに来れた。それにしても、プリヤはなぜ殺されなければならなかったのだろうか。プリヤも主人公の部下なのだからキャットを殺そうとするのを止めさせればいいだけである。知りすぎていたから殺されなければならなかったということなのか。

 「インターステラー」でもそうだが、この映画でも近い将来、地球は人間が住めなくなるという設定だ。おそらく気候変動のせいなのだろう。環境問題、エネルギー問題について暗示するシーンがたくさんある。アルゴリズムプルトニウムと呼ばれているし、若かりしセイターは原子力事故で散らばったプルトニウムを探す仕事をしていて未来人からの手紙を受け取る。映画の序盤、主人公はバルト海の洋上風力発電のタービンの中に隔離される。
 セイターと通じている未来人たちはアルゴリズムを起動させ、過去の人間たちを殺し、自分たちが生き残ろうとしている。いわば環境問題・気候変動について無責任な先祖たちに責任を取らせようとしているのだ。そして、主人公およびTENET たちはそれに抵抗している。つまり主人公とTENETがしていることは、 気候変動によって地球に人間が住めなくなる未来を実現させようとしていることになる。それは果たして正義なのだろうか。主人公は劇中で「誰もが生き残りに必死だ」と言っている。これはただの生き残りをかけた戦いということになる。そしてどちらが勝ってもそんなに明るい未来は来なさそうだ。「我々は黄昏の世界に生きている。宵に友なし」とはそういうことなのか。
 
 この世界では逆行してどの程度現実を変えることができるのか。極めて限定的にしか変えられない、実はまったく変えられないのではないかという気すらしてくる。主人公が時間を逆行してオスロ空港へと近づくと、腕から出血が始まる。過去(逆行主人公からすればこれから起こること)で過去の自分に刺されたからだ。時間を逆行しているから結果が原因より先にくる。それはわかる。しかし結果が先に来るならなにも変えられないのではないか。それとも主人公は未来に余計な影響を与えないようにわざと自分に刺されたということなのだろうか。
 同じく、主人公は時間を順行してきた過去の自分とまったく同じ格闘アクションを繰り返す。運命にガチガチに行動を縛られているみたいだ。
 現実を変えられるならニールだって助けられたのではないか。どうして美しい自己犠牲の精神を持つニールを助けずに、クソビッチのキャットを助けなければならないのだろうか。それが運命だからなのではないだろうか。ニールはそれをリアリティーと呼んでいたが。
 キリスト教では予定説という考え方がある。ある人が神に救済されるか否かはあらかじめ決まっているという思想だ。その人が生まれる前から決まっているのだ。神が全知全能ならたしかにそう考えたほうが理屈だ。神はその人が何をするのか既に知っているのだから。こういう考え方をすると人は自堕落になりそうな気がする。なにをしたって既に救済されるか否かは決まっているのだから。しかし、そうではないという。自らの運命が決まっていると本当に信じた人間は一生懸命に生きるのだという。マックス・ヴェーバーは予定説の影響で資本主義が始まったと書いている。まるでニールが自分の運命に殉じたように。
 それにしても逆行ニールはどうやってスタルスク12の爆破して潰れたアルゴリズムの在り処に入ったのだろうか。爆破して潰れているのだから入れないのでは?
 
 こうして感想を書き始めると文句ばかりになってしまった。名作というより迷作なのかもしれない。でもこうして何週間もこの映画について考えたこと自体が楽しかった。
 劇中でも時間を逆行して同じ現実を繰り返すことで「見方が変わる」という話をしている。まさに映画のことだ。ノーランはいつも映画という媒体について自覚的な映画を撮っている。同じ映画なのに見る度に発見があったり感想が変わったりする。是非何度も見て欲しい。